夕顔 Vo. 6

夕べも一人でテレビをつけっぱなしにして、ホットワインを飲んだまま
転寝をしてしまったのが悪かった。
目を覚ますと、のどがひりひりする。
たんがしっかりのどに巻きついていて、
鏡を見ると、目がうんるんでいる。
風邪の兆候だ。
料理をする気にもならないので
冷蔵庫からミネラルウォーターをだし
まだ温かみの残っている布団へ体を沈める。

ホットワインは、小さなころホッケーの観戦で寒さに耐え切れず
父におねだりした。
今思うと小学生がワインだなんて・・・と思うけど。

あのころがお酒が一番の趣好品だった時代ではないだろうか。

少しまどろんで、節々の鈍い痛みでまた目が覚めた。
体中が熱にまみれ、けだるい膜につつまれているようだ。
喉の痛みはなくなったかわりに、こんどは鼻のかたほうが詰まっている。
冷たいレモンのはいった水が飲みたい。
取ってくれる人はそばにいないけど。
孤独さにじわじわとしめつけられ
このまま腐っていくのではないかという恐怖。
ぎゅっと目を閉じ、私は再び眠りについた。



どれくらい時間が経ったのだろうか。
障子にあたる光のかんじからしても、もう昼過ぎにはなっているのかもしれない。

目やにがたくさんはいっている感触。
後ろ髪もはねてしまっているし、これはもう一度お風呂にはいりなおさなくては。

なんともなく障子をあけて思わず目がくらんだ。
梅林の隙間から差し込む強烈な陽光。
梅の枝の節ですら、銀色に鈍く輝いている。
光は春を越えて夏に行こうとしているのではないかというほど
強烈に私の顔につきささっていた。

生というエネルギーをあふれんばかりに、無駄にときはなつ自然のなかで
ただ取り残されているような。
外はあまりにもまばゆく、すっぽりと飲み込まれそうになる。


静かに障子を閉め、布団にもぐりこむ。
再び静寂と闇がもどってきた。
一気に老いた気持ちになる。
今日は気が済むまでここでだらだらしようと決めていた。




(遼)

やっぱり最初はこんにちはだろうか。いや、その前にノックだよな。ってかどんな家なんだ・・・と階段をのぼっているあいだ、考えがまとまらずいらいらする。
その上、最初に思った以上に階段が急で少し上っただけで、足がかくかくする。
普段の運動不足がこんなところで露呈するとは・・・
急な斜面をふみしめるごとに、木々の間から
ダムの湖面が顔をのぞかせる。
ダムなのに恐ろしく澄んだ緑色をしていて
昼下がりの無人の風景になんだか底はかない邪気をかもし出している。

響さんはなんたってこんな寂しい不便なところに
居をかまえているのだろう。
携帯もはいらない、こんな山深いところ
私だったら一人では耐え切れないだろう。
それにしても、ここに住んでいる響さんというひとが
いまひとつ想像がつかない。
まもなく行く手に古い石垣が見えてきて
崩れそうな平屋の家の軒下が顔をだした。
道はますます急勾配になり、やがて
石垣に沿って最後の階段にさしかかった。
石垣は、長年の風や雨のせいか、
隙間も多く、少々傾いてはいるものの
石の間からふかぶかとしたこけがびっしりとうまっていて
しっかりとこの家を守っているのだとわかる。

最後の階段を登りきるなり、淳哉が背中をたたく。
振り返ると今までの視界が一気にひらけ
ざあっとダムの湖面が目にとびこんできた。
陽が山に隠れたせいか、湖面はさっきまでの色合いを失い
ただ静かになみなみとした水をたたえている。
左手には近くから切り倒してきたのだろう。
雑木を簡単に針金でとめただけの、物干し竿があり
女性ものの簡素な衣類や下着が干してある。
そのいかにも女性の手で作ったような
簡素であまい針金の留め方や、洗濯物。
それだけが唯一、家主の所在をあらわしている。
相変わらず人気はなく閑散としている。
ポストには郵便物はなかった。
いちいち確認してしまうのはなぜだろうか。
響さんのテリトリーにはいってきたなと思う。
勝手口と玄関があったが、やはりインターホンなど気の利いたものはない。
「ちょっと淳哉、叫んでよ。宅急便を届けにきたとかなんでもいいから。」
「えっ、なんで俺なの?」
とぶつぶつ言いながらもやってくれるところが、淳哉のいいところだ。
「こんにちはあ。宅急便ですー。」
間延びした声が、しんしんと静寂な空気に冴えわたる。
何回か呼んだが、当然のように返事はなかった。


「どっか行ってんじゃないの?」
ひとしきり吠えた淳哉がちらりとこちらを横目に口をひらく。
「そんなことないよ。車もあったし。」
絶対いる、ここまで来といてそんなことありっこない。
気が付いたら勝手口のドアに手をかける自分のあかぎれの残る手が見えた。

暗さに慣れるまでしばし時間がかかった。
勝手口を開けると、そこはいきなりキッチンだった。
質素、というよりも何もないと言ったほうがいいだろう。
部屋のすみにはセントバーナードのような、黒と茶色の
巨大なオーブンがどっしりと鎮座している。
それ以外には小さなちゃぶ台、食器棚。そして一人暮らし用の紺色の冷蔵庫。
料理を生業としている人の暮らしぶりとは思えなかった。
壁には神棚があり、厚い榊の葉と生米がきれいに盛られている。

さらに奥の部屋と続く木戸がある。
すりガラスになっていて、奥の様子は見えない。
息をこらえてそっと木戸を右にあけた。


いた、そこに響さんがいた。全裸だった。
死んでいるのかとすら思った。
予想通り髪の長い人だったけれど、もう少しお腹や二の腕に肉がついていて
ふてぶてしい感じだった。
それでもその白い肉は、女の私から見ても
彼女がまだまだ異性として「女」を感じられるだけの
色気を十分持ち合わせている。
そして彼女は妊娠していた。カルツオーネのようにふくらんだ下腹部。
こんなにふくらんで、よく裂けないものだ。
そんなことをのんきに考えるほど、わたしの頭は混乱していた。
呼吸をするごとにお腹も、生き物のように上下した。
相変わらず部屋の中にはなにもなく
まんなかにぽつんと白い重そうな京布団が敷いてあるだけである。
暑かったのだろうか。布団は脱ぎ飛ばされ
お腹の割にずいぶん細い、形のいいふくらはぎが
無造作に投げ出されている。
この湿気くさい、暗い部屋の中で
白い体はじめじめとエネルギーを発散していた。
「帰ろうか」
気が付いたら淳哉も私も同じ言葉を口にしていた。
もう何も言うべきことはないような気もしたし、
私が踏み込む領域でもないのだ。

そっと木戸を閉め、明るい光のなかへ足をすすめた。

「待って。」
刺すような鋭い声が聞こえた気がした。
だけど怖くて振り向けなかった。
振り向かない限り、追いかけてはこないだろう、そんな予感がしたので
せっせと長い石段を降りる。
つんのめりそうになりながら。
石段が終わり、アスファルトの道に両足をのせると
改めて両足ががくがくしていることに気づく。
ダムは立っているところより下にあるのでもう見えない。