夕顔 Vo. 3

この街に来てもう10年になろうとしている。
今朝、中庭に面した障子をあけると梅の花が咲いていた。
桜のようにいっぱいに花をつけるわけでもないし
幹も細くて何だか節だらけで頼りないのに
繊細な華やかさを持ち合わせているのだろう。
この家に決めたのも、中庭の梅に一目ぼれしたからだ。
きっとここなら何とか生きていけるだろう。
そんな運気を感じ、家の間取りなどろくろく見ずに
契約書にサインをしたのはまるで昨日のようなのに。
もう10年もたってしまったなんて。

そういえば障子も黄ばみがでたなあと思いながら
コンポートを作るため、小鍋でバターを溶かしみじん切りにしたりんごを炒める。
しゃっきりとしたりんごが、黄金色のバターを吸い込んで
しなりとしてくるのを見てレモン汁を加える。

とはいえ、細々とはいえ本当に飢えずにここまでやってこられたのは
BAUのマスターである徹の支えがあったからこそだ。

自分でも驚くほどプレッシャーに弱い。
ちょっとしたことで、喜怒哀楽が濁流のように吹き荒れてしまう。
表面ではどうってことないふりをしていても、
寝付けないくらい考え込んでしまう。
フレンドリーな秘密主義者、とかいったところだろうか。

いつも一人なのは精神衛生上よくないことは分かっている。
考えすぎると「もう逃げるしかない」という
極端なところまでいってしまうから。
止めてくれる人もいないし。
今までそれが原因で、何回職場を変えたことか。
無断で欠勤して、ありったけの荷物を持って
鈍行電車に乗った。
この街にたどり着いたのも、
ただただ地方ローカル線の終着駅だったからに他ならない。

本当は電車で逃げるのはキライだ。
景色にひっぱられるから。
なかなか景色が変わらないから、
ふりむくと慣れ親しんだ景色に、呼ばれているような気がする。
大丈夫、今なら戻っても適当に理由をつければ何とかなる。
そんな思いと戦わなければならない。

おそらくわたしが気にすることは、些細なもので
普通に社会のなかで暮していたら石ころのように落ちているものなのだろう。
それを一つ一つ、拾い上げてしまう。

あと、わかっている。
本当はどこへ行っても石を拾わない生活はできないということ。


血筋なのだろうか。
波打ち際に広がる無数の石ころをえんえんと拾っても
誰も気づかない。重くなる肩。
いつか何か違う方法でこの石ころを、ざあっとぶち撒けたら。
ずっとその日をま待ち焦がれながら、今日も律儀に腰をかがめてしまう。

一瞬でも石を拾うことを忘れさせてくれる人、それが徹だ。
はじめて会ったときに、すぐ感づいた。
アルバイトを一切おかず
内装なども意固地なまでに自分の趣味を貫き通している。
鮮やかな木々と花々が驚くほど精密に縫いこまれた
手をのばしても届かないくらい、巨大なハワイアンキルトの壁掛け。
下草のように無造作におかれている色とりどりのクッション。
まるでアメリカの個人の別荘に招かれたようだった。

「厨房はあるけど、家で好きに焼いてくれていいから.」
自宅で焼いてきたチーズケーキを一口食べて、そう言われた瞬間が
今でもつい昨日のことのようだ。
毎日ぴたりと同じ食感や色合いのものを焼くことはできない。
開き直っているように見えるかもしれないが、
機械のように同じものを作るのは、パティシエとして終わりだと思っているから。
徹はそれを分かっている。
ここなら、長く続けられるかもしれない。


それ以来ここにとどまってはや10年が経とうとしている。
続けたのはお菓子作りではなく、恋愛でもあったけど。
色んなことを学び、もっと多くのことを忘れた日々。

「えーまた響さん帰っちゃったの?」
期末テストなので、お昼前にはもう店に着いていた。
ちなみに家は店の裏にあるんだけど、お父さんは店ほど家を掃除しないせいもあって
私はあまり家が落ち着かない。
いつかBAUで使うという食器類が、ありの大群のごとく待機しているからだ。
だからBAUが私にとってのリビングかな。

とりあえず、鉛がはいっているんじゃないかというくらいずっしりとした学生鞄を
ばしんとクッションに投げ捨てて、私は靴下をぬぐ。
「おい、店を臭くするのはやめてくれ」
「レモネードプリーズ。もうチャリこいできたから暑くって暑くって。靴下はかせるなんて何考えてるんだか。」
ついでに鉄のように重いブレザーも脱ぎ捨てて、ようやくうっすらと霜のついた
レモネードのグラスに手をのばす。
言ってみていいかな。今日は。

「なんか、お父さん私と響さんを会わせないようにしてない?だってもう10年もうちにケーキいれてくれてるんでしょ。普通、顔くらい見たことあって当たり前だって。」

「何で俺がわざわざ会わせないようにいなければいけないんだよ。あいつは携帯も持ってないし、極端に人見知りするからあまり街にいたくないんだよ。お前だって何時に帰ってくるかわかりゃしないし、何で俺があいつにお前を待つよう頼まなきゃいけないんだ。」

カラカラと玄関のモビールがふれあい、お客様がいらっしゃったのでそこで私達のおしゃべりはいったん中断した。

豆をローストし、丁寧に時間をかけて抽出する。
手順は体が覚えているので、さくさくと進む。でも
びくっとした。遼に聞かれたとき。
いや、むしろ今まで聞かなかったのが不思議なくらいか。
普段はがさつなのに、ここぞというところでは神経質なほど気を使い、巧妙に地雷を避ける。やはり母親譲りなのだろうか。
ずるいのは自分だ。嘘もつけず、本当のことも話せず
響と遼を会わせないことで、ちゅうぶらりんなままやり過ごしてきた。
俺と響が特別な関係だと知ったら、遼はどんな目をして俺を見るのだろうか。


嘘はばれなければ嘘ではない
こんなセリフを漫画で読んだことがあるけど、本当のところはどうなんだろう。
湿気を吸ってくったりとなった布団に寝そべりながら、テキストに蛍光マーカーで線をひく。
普通自動車大一種免許・学科教習」
この夏、私は18歳になるので免許を取ろうと思っている。
だから誕生日の2月7日を過ぎたらすぐに試験が受けられるよう、学科だけはとっておことうと、こうして期末試験が終わった直後も勉強しているわけだ。
もちろん、本当の理由は別にある。
響さんの家に行ってみたいのだ。
今までお父さんが話してくれたことを総合すれば、おそらくあの村だろう。
県内なのだが、電車はなく車で2時間くらいかかるその村は
「飛び地」と呼ばれる、3県にまたがる小さな村だ。
行ったことはないが、梅林で名が売れていて雑誌にもちょくちょく紹介される。
たいした人口はいないので、響さんの名前をだせば簡単に家は割り出せるだろう。

もういいかげん会ってもいい頃なんじゃないかと思う。
私はいままで十分に話してくれるよう、待ってきたつもりだ。
別におとうさんが響さんとできてたって、愛人でもいい。
ただただ、自分の目でどんな話し方をするのか
お父さんがすきになる人がどんな人なのか、見てみたかったのだ。

とは言え、本当は怖いもの見たさのような気持ちもなきにしはあらず、だ。
今まで10年も会わせなかったのだから
きっととんでもない、過去の事実が浮上するかもしれない。
そう思うと隠していたのはお父さんなのに
なぜか自分のやろうとしていることに、後ろめたささえ覚えてしまう。
私のしようとしていることのほうが、流れにさからうようで。
治りかけのかさぶたを何回もはがしてしまうようで。
流れを変えたのは他ならぬお父さんなのに。
夜更けに、暗闇のなかで夜光虫のようにうっすらと光がにじむ
電気の延長線を見ていると、そんな闇の濁流に飲み込まれそうになる。

大丈夫だ、落ち着け自分。
大人の事情はわからない。
けど、知らないことを知るのは悪いことじゃない。
そう言い切れたのは、やはり若さのせいだろう。
しかしその熱につき動かされ、あやつり人形のようにくねくね変な方向にまがってしまうのが、青春ってもんじゃないか?

「自転車は軽車両なので、4さ路では車両と同じように一時停止しなくてはいけない。」
ため息をつきながら、マークをぐりぐりと塗りつぶす。
学科の問題は100問。5問間違えたらもうアウトだ。
高校でもこんなに集中して授業を聞いたことがないので、ひどく脳が疲れる。
シャーペンを置くと同時にぐったりと突っ伏してしまった。
ああ、私の脳はひどくビタミンを欲している。

「どうだった?」
殺風景な運転免許センターの前には、淳哉がカブで迎えにきてくれていた。
南国の果物のように熟れたオレンジ色のジャケットに
ぴったりした革っぽい濃いえんじ色のパンツ。
マフラーには意外にトラッドでバーバリーのラベルがちらっと見える。
しかし痛いのは、肩にかかるほどのもったりとしたドレッドヘア。
「ううー。まあ、落ちたらまた受ければいいし。何かお腹すいた。」

淳哉とは運転免許の資金をためるアルバイトで知り合った。
もっとも淳哉は一ヶ月で辞めさせられたので
アルバイトで話したのはほんのわずかだったが。
かたい職場だったので、あんな外見をしているのが災いした。
さっそく上司に目をつけられ、職務態度が悪いとかで難癖をつけられてやめさせられた。
実際、淳哉よりも仕事のできない人なんて、まわりにいくらでもいた。
何を隠そう自分もその一人だ。
それは淳哉も分かっているはずだ。
にもかかわらず、辞めさせられても誰に八つ当たりをするわけでもなく
さっぱりと出て行こうとしたこと。
なおかつ以前と変わらぬ態度で、私と接することのできるたくましさ。
気がついたら携帯番号を聞いていた。

淳哉ならば、響さんのことを話せるかもしてない。
相変わらずゆっくりとしたペースで、パスタを食べている淳哉を見て
改めて確信した。
この人に一緒についてきてほしい、と思った。
万が一なにか起こっても、この人が横にいたら少なくとも自分が錯乱することはないだろう。
「何か頼みがあるんでしょ。」
さすがは淳哉だ。少なくとも自分のまわりにこんなことをさらっと言える人はいない。
しかも私が切り出しにくいところを汲んでくれて
自分から言い出したのだろう。
紅茶を口にふくむ。アールグレイの香りとも臭みともいえない微妙な匂いが
歯の裏側にでも染み付いてしまいそうだ。
小さな堰をして、私は途切れ途切れ長い物語を話はじめた。

「ちかぢか遼がこっちに来るかもしれないから。」
「どういうこと?」
「かもしれないから・・・ってどうしろって?」と言いたい気持ちを押さえ込み、とりあえず徹に話すよう促す。
いけない、動揺してしまっている。無性に煙草が吸いたくなったがあいにく禁煙中だ。
口がさみしいので、ひとまず熱燗を二人のおちょこにそそぐ。
とぽとぽという音を聞いていると、一緒に自分の涙もこぼれ落ちてしまいそうでびっくりした。
いつかは来ると思っていたが、こんな突然に知らされるとは。
いや、まだ来ると決まったわけではない。と、ほうとうの鍋をかきまぜる。
このあたりはほうとうを手作りするので、よく近所から打ちたてのほうとうを頂く。
今日のも徹のために、冷蔵庫で保存していたものだ。