夕顔 Vo. 1

近くにいても
そのときには見えないものがある。
たとえば、普段はじめじめということばが
畳に寝そべっているような和室の障子を
さっと開け放ったときに
スポットライトのようにちりちりと舞い込む
銀色のほこりの粒。

たとえば、普段はちっとも冴えないのに
一瞬の夕立で見違えるようにツヤを帯びる、庭の砂利。

そんなことにいちいち気づかされた高校最後の夏。




これでも響さんのことはもうずっと昔から知っている。。
この「知っている」が示す領域はえらく狭いにしても。
おそらく私がパパ、ママの次くらいに古い
名前だけは耳になじんでいる。

うちの家は、父が趣味でコーヒーの喫茶店をやっている。
「珈琲」と書いたほうがしっくりくる
珈琲とケーキの二点しか出さないお店。
幸い、さびれている田舎町でも
山陰の都市を結ぶ国道沿いにあるのでそれなりに客ははいる。
一休みしたいが、道沿いにずっと休憩できるような店がなく
ようやくたどり着いたらそこが「バウ」だったという話だけど。



ママは私が小学校にあがる前にここを出て行った、と聞いている。
一人っ子なので、今はパパと二人暮し。
たぶん響さんがバウで働きだす前に、ママはこの家を出て行ったはずだ。
そこの記憶だけがどうもちぐはくになっている。
ちからまかせに思い出そうとすると
さらさらと砂のように手の間を零れ落ちてしまいそう気がする。


ママがいなくなった日から、「バウ」の内装は何一つ変わっていない。
ママが丁寧に一針一針気の遠くなるような時間をかけて作った
ハワイアン・キルト・タペストリー。
今もパパはこっそりタペストリーをまるめて、愛車のジムニーに乗せ
定期的にクリーニングに出している。
つないで大きくした観葉植物も、綺麗に籐のポットに植え替えられているし。
窓際のポトスの分厚いつやのある葉をみると
水栽培の準備をしていたママを思い出す。

そうだ、最初に響さんのことを聞いたのもママだった。
確か幼稚園のときだったとおもう。
夕食を食べた後、私は一人おとなしく居間でテレビのアニメ劇場かなんかを
見ていた。
珍しくお店のほうから、パパとママの声が聞こえてきて
いいなあ、私もあっちに行きたいなあって思った。
番組はエンディングの歌と来週のお知らせが残っているのみだ。
はやばやとスイッチを消し
お店へとつづく狭い廊下を靴下ですべりながら走った。
のれんの影をまたいで店にはいると、廊下のみかん色の裸電球で慣れた
目がしぱしぱした


「響ってなに?」
「誰」ではなく「何」と聞いたことだけははっきりと記憶している。
唐突にそう聞くくらいだから、よほどパパとママは私の前でも
響さんの名前を出していたのだろう。
一瞬二人はぎょっとしたように、こちらを凝視して黙り込んだ。
まるいで交差点の車が譲り合うように。
しばらくしてママが耳に口を近づけこういった。少し上ずった声で。
「バウでお菓子を作ってくれているおにいちゃんよ。」
「え!バウのお菓子はパパがつくってたんじゃないの!?」
「響さんが作って、毎朝こっそり煙突から届けてくれているんのよ。さあ、
もうアニメも終わったでしょ。パジャマに着替えなさい」


それを聞いて私は夜店で買ってもらった
ピンクのゴールデンハムスターのことを思い出した。


「いやーん、かわいい!」
夏祭りの縁日の夜店で私は歓声をあげた。
ダンボールの中には、ピンク、緑と色とりどりに染められた
ハムスターの子供がうじゃうじゃと動いている。
「やあねえ、こんなのすぐ死んじゃうのよ。」
と耳元でこっそりささやきながら
ママは500円玉を出して、私のために一匹飼ってくれた。


色が付いているのをきらったママは
祭りから帰るなり、暴れまわるハムスターをわしづかみにして
すぐさま石鹸で色を落とした。
「いやだわ、足が本当にネズミの足をしてる。
こんなのすぐネズミ算式に増えちゃうのよ。絶対一匹しか飼っちゃだめよ。遼。」
そう言って、シュレッダーで細かく刻んだわらのを敷き詰めたケージの中へ
ハムスターを投げ入れた。
それがハムスターを見た最後だ。


どんどん餌を食べて大きくなっていくのに、まったく姿を見せない。
そのくせ夜中になると、「ガラガラガラ」とおもちゃで遊びだし延々とその一人遊びは続いた。
おかげでなかなか寝付けなかったなあ。
響さんも夜がふけてからカラカラと一人で生地をかきまぜしたりしているのだろうか。

だからという訳ではないが、あたしは響さんはハムスターのようにふくふくした感じの人だと思いこんでいた。そして、他のクラスメイトドラマの芸能人を見てきゃあきゃあ言うように、一度絶対に響さんに会って見たいと思っていた。

響さんの作るケーキは本当においしい。
うまく言えないけど、ちゃんとコーヒーやお茶を入れてじゃないと、食べちゃいけないなという気にさせられる。
「高級な材料は何一つ使っていないのにな。いやぁ、遼。俺は自慢じゃないけどさ、たいがいのケーキは味見をしたら砂糖を何グラム入れただとか分かるんだよ。でもこれは読めないんだよなあ。ここまで来ると人柄の域なんだろうな。」
そう言いながらお父さんはコーヒーを入れてくれる。